アンチ偽善勘違いも甚だしい話

相変わらずTwitterに依存しまくっているわけなんだけど、今日は図らずも2連休になったその2日目で、午後はさすがに実になることをしようと思ってなるべく開かないようにした。けど昼寝が長すぎてもう夜になってしまった。

 

開かないようにしているTwitter摂食障害繋がりの女の子(我々中年がお互いを女の子と呼ぶのは若い人達にとっては気味の悪いことかもしれないけどすみません)がいて、生きづらい仲間のように「勝手に」思っていた。

でも病はそれだけではなく、今日彼女のブログを初めて読んだら相当つらそうだった。食べられないつらさに加え身体的な激痛が毎日。本当に命が危ういみたいだ。

そこに「摂食障害が治った人は環境が良かっただけだと思う」というような事が書かれていて、私は確かにもう食べたり吐いたりすることがなくなって若干治った気になっているので、ショックだった。

今までつらさっていうのは計れない、比べられないものだと思い込んできたけれど、やっぱり自分の「つらい」は大したことなかったのかもしれない。それをなんだかわかったような言い方で仲間のように振る舞っていたのだとしたら非常に申し訳ないと思った。

たかが数年間精神科に通って服薬したり、アルコール病棟に入院したくらいで苦労してきたと思っていた。でも実際は酒で体を壊したこともないし、今は普通に働いているし、幸運にも良い夫に恵まれて、今でも落ち込んだり妬んだりすることは多いけれど、それは自分の性格の悪さから来ているだけなんだろう。

 

せめて痛みを取ってあげられたらなって思うし、本人も医療大麻の合法化を願っていて、でも今の日本では叶えられそうにないし、たとえ手に入れられたとしても絶対に良くなる保証なんてない。

彼女の絶望なんて自分にはわかりっこないんだよね。

 

その後はいつも通り、Twitterでの醜い言い争いなどを目にしたり、今朝起きたばかりの北海道の大地震のことを読んだりして、自分はやっぱり良い人ぶってるだけの部分がでかいんだろうとか、また落ちてきた。

 

「心配してるよ」なんて口ではいくらでも言える。いや、本当に心配しているし、みんなが幸せになったらいいなと思う。思うんだけど、余計なことを言いすぎたり、良く思われようと努力しすぎたり、取り繕ったりしすぎているのではないかと不安になる。

目に入ってしまえば見逃すのは難しいし、できること(言えること)はしたいなと無駄に関わろうとしちゃう。

 

でもやっぱり他人にとって私は他人だし、お互いスマホやパソコンを閉じてしまえば目の前からいなくなる存在なんだ。インターネットは便利だけど、自分にも相手にも負担になることが多すぎるなと感じる。

 

バイト探す。